2015_05
10
(Sun)18:24

『清光恋々』(4)

『清光恋々』(3)の続きです。








 木の葉が揺れる音に混ざって、ちちちと鳥の鳴く声が聞こえる。開け放った窓からは柔らかな日差しが降り注ぎ、新緑の香りがほのかに漂ってくる。

 春の穏やかな休日。本来ならば何でもない平穏な1日になるはずだった。

 気持ちのいい風が入る部屋の中、千代は浮かない表情で長い髪を梳いていた。今日の予定を考えると、些か乱雑になる。

 今日は、婚約者候補である有馬が来る日だ。昨日から八重に嫌というほどに聞かされていた。あまりにもうるさいので、今日は仕度を始める前に部屋から追い出してしまったほどだ。

 本当にしつこい方。

 これだけつれなくしていれば、向こうから取り下げの申し出もあってもよさそうなのにと、千代は甘いことを考えていた。自分の婚約を取り巻く、複雑に絡み合った大人の思惑と事情を理解するには千代はまだ子供だった。

 適当に髪を結うと鏡台に置いてある黄楊の櫛に目をやる。有馬からもらった桜の柄の櫛だった。

 千代はこの櫛をもらった時のことを思い出すと、落ち着かない気持ちになる。いつもへらへらとしている有馬が少しだけ、ほんの少しだけ自分の本心を見せたように感じたからだ。

 この櫛を美しいと感じたことも、手に取った時に千代のことを思い出したのも嘘ではないだろうと思ってしまった。それが千代の心に波を立たせるのだった。

 今は、もう桜の季節ではないから、挿さなくてもいいわよね。

 最近まで有馬に会わない時は、挿すことがあった。大抵の人は千代によく似合っていると褒めた。そのたびに気持ちが跳ねて、そして沈んでいくのだった。自分にはこの櫛を挿す資格が無いのだから喜んではいけない、と。

「お嬢様、そろそろお支度は終わりましたか」

 八重が扉の向こうでやきもきしているようだ。千代は深呼吸をしてから、扉を開けた。

「よかった。千代様は出てこられないのではないかと心配しておりました」

「今日はお父様にも言われているから、そこまではしないわ」

 八重はあからさまに安堵したような表情になった。

「有馬様は少し早めにお着きになったので、庭を散策なさっています。せっかくですから、お嬢様もお庭に行かれてはいかがですか」

「そうするわ」

 おとなしく庭へ向かった千代を見送って、八重は仕事場へ戻った。



 庭へ出て有馬を探す。しばらくすると、木の影に座っているのが見えた。うつむいているのでその表情はうかがえない。

 一定の距離まで近づくと、様子がおかしいことに気付いた。

 眠っていらっしゃる……?

 手元に本を開いているようだが、進んでいる気配がない。そして、その目も閉じられているようだった。確かにここは屋敷からは死角になっているし、この陽気では睡魔に襲われてしまうのも無理はない。

 一瞬たたき起こしてやろうかとも思ったが、よく見ると心なしか顔が青い。疲れているのだろう。大変忙しい方なのだと父から聞いていた。有馬家の次男で、お兄様とともにお父様の会社で働いていらっしゃるのだと。大学も主席で卒業された優秀な方だとかいう話だ。

 どうしてそんな人が自分のような小娘のご機嫌を取りに来なければならないのか。しかも、こんな無理をしてまで。

 風が通り抜ける。揺れる前髪の隙間から見える有馬の顔に胸が苦しくなる。

 千代は婚約者候補に引き合わされる前日の夜のことを思い出していた。それは、自分の胸の内にだけ秘めていることだった。

 なんとしても婚約に至らないようにしなければ。千代は、その時にそう誓っていた。

 私はこの方を拒否しなければいけない。それは自分で決めたことだ。絶対にやりきらなければならない。でも、こうして穏やかに眠っているのを見守るくらいは許されるだろう。

 千代は自分に言い訳をして、あるものを取りに部屋へ戻っていった。






「ご気分はいかが?」

 有馬が目を覚ますと、少し離れたところからとげのある声が聞こえた。千代のものだった。向かい側の木陰で本を読んでいたようだ。有馬は瞬時に現在の自分の状況を把握した。

「すみません。せっかくの貴女との時間を無駄にしてしまいました」

 一睡もしていなかったとはいえ、千代を待っている間に居眠りをするなんてとんでもない大失態だった。

「私にとっては都合がよかったわ。貴方とおしゃべりしなくてすんだもの」

「いえ、まだ時間はありますよね。眠ってしまった時間の分、より親密に語り合いましょう。そしてこの埋め合わせは必ず……」

「だからそれが嫌だと言っているのよ」

 最後まで言わせずに、千代は立ち上がって屋敷のほうへ行ってしまった。

 有馬が追いかけようとした瞬間、肩から何かがばさりと落ちた。藍染の肩かけだった。その色は自分の裏稼業を彷彿とさせ、一瞬どきりとしたが、千代のものだと気付き緊張を解いた。

 千代は、口を開けば有馬を軽薄だなんだと非難する。それは狙い通りの反応だった。演技がうまくいっている証拠だ。

 “千代お嬢様は、まっすぐで素直で軽薄な人間が嫌いな年相応の女の子。義賊・藍に心酔しているらしい”

 引き合わされる前に得た情報は確かで、そこに疑う余地はない。実際会ってその通りだと思った。

 しかし、千代は最初に有馬が口を開く前から不機嫌だった。つまり、有馬が演じる軽薄な男を見る前から嫌われていたということだ。

 ほかに好いた男がいるのか、もしくは義賊・藍にそこまでの感情を持っているのか。人を使って調べさせたがその素振りは無かった。

 なぜ頑なに拒まれるのか、いまいち納得がいっていない部分があった。婚約に至らないのはこちらとしても好都合だが、気にならないわけではない。

 落としてしまった肩掛けを拾い上げて丁寧に折りたたむ。これは千代の優しさの欠片だ。ここに本来の彼女の心があるような気がした。そこに何か答えにつながるものがあるのではないか、有馬はそんなことを考えていた。

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