2016_05
05
(Thu)21:43

『龍神と娘』

龍神と娘の出会いから別れまでの物語。







 草木も眠る丑三つ時。

 娘は涙と鼻水で汚れた顔を拭いながら道なき道を歩いていた。

 自分の背ほどもある雑草をかき分けるたびに、手や足に切り傷が増えていく。

 それでも進むことをやめなかった。

 十になった娘はこの日、山菜を採りに初めてひとりで山に入った。

 親に教えられたとおりにしていたはずなのに、籠をいっぱいにしようと夢中になっているうちにいつしか見たことのないところへ出てしまったのだ。

 娘は焦り、必死に自らの跡を辿った。

 しかし、見知った場所へ戻る前に日が落ちてしまったのだった。

 幸い今日は満月で木々の隙間から白い光が降ってくる。

 それでも慣れているはずの小さな虫の気配ですら恐ろしいものに感じられた。

 どこかで潜む獣の息遣いが聞こえるような気もする。

 焦りと恐怖が、空腹と眠気に苛まれる娘の手足を動かしていた。

 どれくらい歩いただろうか。そのうちに開けた場所に出た。

 ちょうど正面にはぽっかりと開いた洞の口が見える。

 ここで休んで明るくなってから戻ったほうがいいのかもしれない、とようやく娘は思い至った。

 息を潜めておそるおそる中に入る。

 すると、月の光が届かないはずの洞の中で淡く輝くたくさんの銀の糸が見えた。

 その長い糸の先を辿っていくと人の顔があり、深い湖のような青い色をした目がついていた。

 よく見ると銀の糸の傍らにはその瞳と同じ色の着物があった。

 龍神様だ、と娘は思った。

 母に聞いた雨を恵むという神の姿のそっくりだったからだ。

 娘は龍神の棲まう洞に迷い込んでしまったのだ。

「なんだおまえは」

 洞の中に響く低い声に娘はびくりと体を震わせる。

 雪の冷たさを思わせるその声が体の芯に突き刺さる。

「あ、の、まよ、ちゃっ、て……」

 そこで娘の限界がやってきた。

 娘のこの世の終わりのような声が天井、壁、床と四方八方にぶつかる。

 龍神がその美しい顔をゆがめ、耳を塞ぐほどであった。

 何かにとり憑かれたように娘は泣き続ける。

「やかましいガキだ。これをやるからさっさと村へ帰れ」

 そうして龍神が差し出したのは、娘の拳ほどの大きさの鱗だった。

 洞の中にあっても青い光を放ち、あたりを淡く照らしている。

「それを持っていれば道が見えなくなることも、獣に襲われることもないだろう」

 泣き喚く娘の手に無理やり押し付けると、娘の背をぐいぐいと押して洞の外に出す。

「いいか。ここをまっすぐに進め。何があってもだ。そうすれば村に行きつくはずだ」

 まるで虫でも追い払うかのようにしっしと手を振っている。

 突然示された帰り道に娘の涙も引っ込んだ。

 手にした鱗はほんのりと温かい。そして、美しかった。

「ありがとう、龍神様」

 娘は顔を拭うと鱗をしっかりと握りしめ、言われたとおりに進んでいった。

 龍神はため息をつくと、洞の中に戻っていった。





「龍神様、昨日はありがとうございました。これはお礼です」

 日が昇り切ったころ、洞の入り口近くで神妙な面持ちで三つ指をついて籠を差し出す娘の姿があった。

 その真ん前で龍神は腕を組んで立っている。

 傷の手当がなされていることを見ると、どうやら無事に帰れたらしいと龍神は推して知った。

 籠の中からはげこげこという鳴き声がしている。

 その声に龍神が顔を引き攣らせた。

「いらん」

 娘はええと不満げな声をあげて立ち上がる。

「龍神様の本当のお姿は蛇に似ていると聞いたから、蛙を食べるのかと思ったのに」

「俺は何も食わん。と言うか、そこらの蛇と一緒にするな」

 機嫌の悪さを隠すことなく、洞の中に戻っていく。

 そんな龍神の後ろをついて走りながら、娘はううんとうなっている。

 そのうちにぴたりとその動きを止める。そして満面の笑みで言った。

「じゃあ、明日はお花を持ってくるわ」

「いらん」

「この山のお花はどれもきれいなのよ。食べられなくてもきっと楽しいわ」

「俺は来るなと言っているんだ」

「どうして。わたしは龍神様に会いたいわ。だってとっても優しい御方だもの」

 眉間にしわを寄せた、世にも恐ろしい龍神の顔を前にして娘はにこにこと笑っている。

 妙なものに好かれたものだ、と龍神は頭を抱えた。

 それから龍神がいくらつれなく追い返しても、何が楽しいのか娘は三日と空けずにやってくる。

 あの日、妙な親切心を出さずに森に捨て置けばよかったと後悔した。しかし、あの泣き声に取るべき道はひとつしかなかったのだということに思い至り嘆息する。

 そのうち母親に叱られでもしたのか、ぽつぽつと日が空くようになっていった。

 しかし、娘は変わらずに駆けてくる。

 スミレ、カタクリ、アヤメ、ナデシコ、ユリ、リンドウ、それらを小さな両手いっぱいに握って。

 よくもまあ見つけてくるものだ、と龍神は感心した。

 いつの間にか娘が通ってくる場所が道になっていた。

 繰り返し繰り返し娘はそこを通ってやってきた。

 次は何を持ってくるのか。

 龍神はいつしかそんなことを思うくらいには娘の訪れを心待ちにするようになっていた。

 雨は地に染みてその渇きを潤す。

 龍神の心にも小さな花の蜜が沁みていった。





 そうして迎えた五度目の春。

 娘は手足も髪もすらりと伸びて、大人の女になりつつあった。

 耳を塞ぎたくなるような甲高い声も、落ち着いた澄んだものへ変わっていた。

 しかし、姿かたちは変わっても相変わらず花を持って駆けてくるのだった。

 今日もその手にはアセビが握られている。

 ふたりは洞の中の入り口近くの石に並んで座りながら花を眺めた。

 いつまでも受け取られることは無い花は、娘が勝手に龍神の目に留まる場所に置いていくのだった。

 そうして洞の中は冬の間以外は色と香りに溢れていた。

「今日はいつもよりはやく来ることができたわ」

 娘は自慢げに拳を握った。

「わたし、畑を耕すのがとてもうまくてはやいのよ。今日も褒められちゃった」

 あと機を織るのもね、と笑う娘の指はところどころ変形し、傷付き、赤くなっていた。

「土がかたいのか」

 そんな娘の手を取りながら、龍神が問いかける。

「いいえ。これが当たり前なの」

 土に触れ、木に触れ、水に触れ、傷付き、次第に歪にかたくなっていく。

 それが自然と共に生きる人の手だった。娘にとってこの手は生きている証でもある。

 娘は自分の手を恥じたことは無いが、一方で龍神の絹のようになめらかな手に胸を刺す痛みを感じることもあった。

 あたりに濃い水の気が漂う。

 程なくして、さああと雨が降り注ぐ。 

「いけないわ。雨は龍神様の御心次第でなくては」

 娘は慌てて隣の龍神を見上げる。

 たったひとりの娘のために降るものであってはいけなかった。

 うろたえる娘に龍神がふっと微笑む。

「俺の心だ」

 握ったままの手に力を込めて龍神が静かにそう告げると、娘は目を見開いた。

 そして言葉の意味を理解すると、花がほころぶような笑みを見せる。

 娘はそれ以上何も言わずに龍神の仮初めの姿に寄り添った。

 優しい雨の音だけがふたりを包んでいた。





 それは秋ももう終わろうとしているころだった。 

「龍神様、わたし」

 珍しく歯切れの悪い言い方をする娘に、龍神は眉をひそめた。

「春になったら隣村にお嫁に行くことになったの」

 着物を握りしめてうつむいたまま娘は告げる。

「そうか」

「だからもう、ここに来ることはできないわ」

「そうか」

 龍神は調子を変えずに告げる。

「だったら、さっさと行ってしまえ」

 弾かれたように娘が顔を上げると、龍神の青い瞳は燃えているようだった。

「龍神様」

 娘の呼びかけを無視するように、龍神は洞の中へ戻っていく。

 取り残された娘はたまらずに泣き崩れる。

 五年の歳月を経て訪れた終わりは、至極あっけないものだった。





 それから、ひたすらに雨は降り続く。

 来る日も来る日も。

 それは、ひどく冷たい雨だった。





 龍神は洞の中で何をするでもなく、淡々と過ごしていた。

 娘と会う前に戻っただけなのにひどく空虚で長い時間だった。

 洞の中には暗く、冷たい闇が広がっている。

 ふと、枯れ果てた花が岩の合間に挟まっているのに気が付いた。

 それすらも厭わしく、引き抜いて洞の外に投げ捨てる。

 すると、人の気がした。それは間違いなく娘の作った村からの道を登っている。

 途端に身の内が燃え上がるようだった。

 人は勝手だ。いつも雨を乞うくせに、今度は雨を止ませろというのだろう。

 龍神は猛烈に腹を立てた。

 もっと降らせてやろうかと、そんなことも考えた。

 しかし、近付くほどにその気配が馴染んだものであることに気が付いた。

 龍神が思わず洞の外に一歩踏み出したのと同時に、泥だらけになった娘が姿を現す。

「お願い、龍神様」

 龍神の姿を認めると、娘は叫ぶように乞うた。

「村を、沈めて」

 娘の口から出た言葉は、龍神の思っていたものとは異なっていた。

 娘は転ぶようにして這いつくばり、額を地面に擦りつける。

 初めて娘が龍神に何かを願った瞬間だった。

「顔を上げて、わけを話せ」

 龍神の声に、娘はのろのろと体を起こす。

 泥にまみれたその顔はひどく痩せこけており、目の下には隈が浮いている。

 葉先の朝露のように輝いていた瞳は、湖の底にたまった澱のようになっていた。

 そこには、かつての春の花を思わせる美しい娘の面影はなかった。

「病が」

 そう口にした娘の頬に一筋の雫が伝う。

「あの村はもう終わり。死を待つだけの者しかいないの」

 龍神と娘の視線が静かに交差する。

 共に過ごした時が、浮かんでは消えていく。

 日の光、花の色、風の香、雨の音、寄り添ったお互いのぬくもり。

 あの幸せなひと時の行き着く先は、ここでしかなかったのか。

 深い悲しみと後悔が龍神の胸を責める。

「わかった」

 長い時間の後に、龍神が一言だけ放った。

 娘はほっとしたような顔になり、ふたたび地に伏せる。

 龍神はそんな娘の腕を取って強引に立ち上がらせる。

「おまえはここにいろ」

 息もかかるほどの近さで龍神は絞り出すようにして囁く。

「朽ちるまで、そばに」

 娘の瞳が揺れる。そこに宿った喜びの色を龍神は見逃さなかった。

 しかし、娘は静かに首を横に振る。

 ゆっくりと着物の袖をずらしながら、龍神の目の前にさらした。

 娘の細く青白い腕にはいくつかの赤黒い斑点が浮かんでいた。

「最期は腐ってしまうの。わたしはあなたにそんな姿を見られたくないわ」

 娘は龍神の指をそっとほどき、一歩、二歩と後ずさる。

「わたしは喜んでしまったの。雨はあなたの心だから」

 そうして天に両手を伸ばす。

 袖がずり落ちて、先ほどよりも多くの斑点があらわになった。

 体の芯に近いところほど、その色が濃くなっている。

「これは愚かなわたしへの罰でもあるんだわ」

 雨粒を胸に抱えるように、そっとその手を戻した。

 娘はふたたび龍神をまっすぐに見つめる。

 言葉とは裏腹に娘はわずかに微笑んでいた。

「ありがとう、龍神様。このかたちを失っても、あなたのそばに」

 そう言うと娘は元来た道を走って引き返していった。

 雨の中、美しい神だけが残された。
 



 
 娘の姿が無くなってしばらくすると、雨はその勢いを増した。

 すべてを覆い隠して赦すように。それは激しくも優しい雨だった。

 二日後、山あいの小さな村は永遠に土の下に眠ることになる。


 

 
 どれくらいの時が経ったのか。

 暗い洞の中で過ごしていた龍神には知る術が無かった。

 知っているのは娘がもういないということだけ。

 ただ、洞の中で息をしていた。

 ある時、まどろみ続ける龍神の頬をかすかに懐かしい香りが撫でた。そこには確かに娘の気配があった。

 龍神は慌てて体を起こし、洞の外へ飛び出す。

 久しぶりの太陽の光に目がくらむ。手で遮りながら徐々に目を開けると、たくさんのスミレが風に揺れていた。

 “このかたちを失っても、あなたのそばに”

 娘の言葉がよみがえる。

 体から力が抜け、地に膝が付く。そしてそのまま倒れ込んだ。

 龍神が娘との『約束』を守ったように、娘も約束を違えなかった。
 
 村とともに沈み、人としてのかたちを失くし、それでも龍神の元へ戻ってきた。

 龍神との思い出そのままに。

 目の前にひときわ凛と立つ花があった。

 ああ、娘だ、と龍神は思った。

 「龍神様」と呼ぶ娘の声が聞こえるようだった。

 龍神の青い瞳から雫が流れる。

 手を伸ばしその花弁にそっと触れると、静かに目を閉じた。

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2016/05/06 (Fri) 00:02 | # | | 編集 | 返信

Re: タイトルなし

鍵さま


こんばんは。早速コメントありがとうございます。
『風の行方』を気に入ってくださっているあなたなら反応していただけると思っていました。

ほかのしんどい物語の合間に書いているので、完全に趣味に走った物語でした。
得意なパターンの連打です。

文章は書き方を変えたんです。気付いていただけてうれしいなあ。
主要な情報は一文に一個、を心がけるようにしたんです。
その分、一文にちょっと余分なものがつくようになりました。
前は骨と筋肉だけの文章だったので、硬い感じだし、体感的にちょっと速めに進むんですよね。
それが脂肪(クッション)ができて、ゆったりになったので読みやすいと感じていただけたのではないでしょうか。

また、熟語を極力排除するようにしました。これはこの物語に限ってですが。
なるべく和語と簡単な語彙で構成されるようにしました。
昔話風にしたかったので。
そういうことなので、表現もあんまりひねってないし、例えなんかも全て簡単なものにしてるんですよ。

残るは火の神様と土の神様です!待っててください!
また遊びにいらしてくださいね。

吉川蒼

2016/05/06 (Fri) 00:30 | 吉川蒼 #- | URL | 編集 | 返信

Re: Re: タイトルなし

鍵さま

※追記です。

龍神様的なキャラクターは性格面で言えば、創作者の分身です。
陽平くんもそうなのですが、まんまわたしの性格です。
なので気持ちがよくわかるし、とっても書きやすいのです。


吉川蒼

2016/05/06 (Fri) 00:51 | 吉川蒼 #- | URL | 編集 | 返信

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